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6月の企業物価指数が前年同月比で7.1%も上がった。聞いた瞬間、「またモノの値段が上がるのか」とため息が出た人もいるだろう。ところが同日、日経平均は一時1600円を超える上昇。仕入れコストの急増は、普通なら企業の利益を圧迫して株安要因のはず。なぜ逆のことが起きたのか。この違和感の正体を追うと、日本経済の地殻変動が見えてくる。
7.1%上昇の「犯人」は誰か?──原油だけじゃない
まず、何がこれだけ上がったのか。企業物価指数(PPI)は、企業間で取引されるモノの価格を測る。今回の急上昇の主犯は、中東情勢の緊迫で跳ね上がった原油価格。その影響をもろに受けた石油・石炭製品の価格が押し上げた。しかし、それだけではない。食料品や金属製品など、幅広い品目で価格転嫁が進んでいる形跡がある。つまり、単なる「原油高の一時的な跳ね上がり」では片づけられない、構造的な変化が潜んでいる可能性があるのだ。
ここでひとつ、数字の翻訳をしてみる。7.1%というと「去年より7%も高い」と感じるが、実は2023年3月以来の高い伸び。あの時は、ウクライナ危機後の資源高が直撃した直後で、まさに「悪いインフレ」の真っ最中だった。今回の数字は、その記憶を呼び起こすには十分だ。
ただし、今はあの時と決定的に違う点がある。それは「需要」の存在だ。2023年はコストだけが上がる「スタグフレーション」の恐怖が漂っていた。今は違う。AI関連の設備投資やインバウンド需要が企業活動を下支えし、値上げを受け入れる土壌が徐々に整ってきた。つまり、値上げできるかどうかは別として、少なくとも「お客さんが完全に逃げる」状況ではない。これが、後述する株高を理解する最初のピースになる。
さらに踏み込むと、2023年当時は日銀の金融緩和が続き、円安が輸入物価を押し上げる「悪いインフレ」の側面が強かった。しかし今回は、円安一服の兆しがある中での物価上昇であり、需要側の要因が相対的に大きい。これは、価格転嫁が進みやすい環境であり、企業にとっては「我慢しない」選択肢を正当化する材料にもなっている。市場が強気の解釈をするのは、こうした複合的な変化を感じ取っているからだ。
「川上の値上げ」はどこへ消える? 価格転嫁の3段階
企業物価指数が上がるということは、要するに「川上」、つまり原材料や部品を作る企業の値札が上がっている状態だ。これが最終的に消費者物価(CPI)に跳ね返るかどうかは、「川中」「川下」の企業がどれだけ価格を転嫁できるかにかかっている。この連鎖を、一杯のラーメンを例に考えてみたい。
ラーメン屋にとって、小麦粉(川上)の値上げは痛い。これを価格に転嫁するには、スープの会社(川中)が値上げし、さらに麺の問屋(川中)も値上げし、最終的にラーメン屋(川下)がメニュー価格を上げる、というプロセスが必要になる。どこかで「うちが我慢すれば」という空気が支配的だと、川上の値上げは途中で吸収され、死屍累々の企業が続出する。逆に、あっさり転嫁できれば、物価は上がるが企業の利益は守られる。
この「転嫁の連鎖」は、経済学では「マークアップの硬直性」とも呼ばれる現象だ。つまり、一度定着した取引価格は簡単に変えられず、特に日本では長年のデフレで「値引き」が当たり前だったため、値上げはタブー視されてきた。しかし、原材料費の上昇があまりに急激で継続的だと、もはや吸収しきれない。ラーメン屋の店主も「申し訳ないけど、麺の値段を上げます」と言わざるを得ない。その連鎖が全国で同時多発的に起きているのが今の状況だ。
今回のデータが示唆するのは、川中や川下で「価格を上げるのが当たり前」という空気が、かつてないほど広がっている可能性だ。それは倒産の増加という、別のデータからも読み取れる(後述)。生き残るために、嫌でも価格を上げる経営者が増えているのである。この心理的変化を、例えば2021年の米国で起きた「パンデミック後の価格発見」と比較するとわかりやすい。あの時も、企業は需要急回復に乗じて値上げを実施し、それが賃金上昇につながった。日本も同じパターンに入りつつある、と見る市場関係者は少なくない。
そして、この「流れ」こそが、日銀が密かに期待する「賃金と物価の好循環」の前提条件だ。ただし、「好循環」になるか「値上げだけが進む悪循環」になるかは、次のステップにかかっている。具体的には、川下の企業が値上げした後、その収益が本当に賃金に回るかどうかだ。もし企業が内部留保を増やすだけなら、消費は冷え込み、いずれ値上げ自体ができなくなる。
意外とタフだった日本の「価格支配力」──できた企業、できなかった企業
さて、読者のあなたはおそらく、こう思うだろう。「値上げできる企業なんて、結局は一部の強い会社だけでしょ?」と。その疑問はもっともだ。実際、すべての企業がすんなり価格転嫁できているわけではない。今回の企業物価上昇の裏では、転嫁のしやすさで業界ごとに明暗が分かれている。
たとえば、AI向けの半導体や素材を扱う企業は、値上げを言い出しやすい。需要が引っ張っているからだ。一方で、生活必需品や、代替品が豊富にある分野では、値上げすれば客が逃げる危険と背中合わせだ。ここで勝敗を分けるのは「価格支配力」、経済学で言う「プライシングパワー」である。ざっくり言うと、「この会社じゃなきゃダメ」と思わせる力だ。
そして、驚くべきことに、日本企業の価格支配力は、この数年で静かに鍛えられてきた。長年のデフレで「値上げ=悪」と刷り込まれてきた消費者も、毎日のように値上げのニュースを浴び、少しずつ「仕方ない」と思うようになってきた。企業も値上げに抵抗がなくなり、むしろ「値上げしないと株主から文句を言われる」というプレッシャーも生まれている。この背景には、2023年以降のコーポレートガバナンス改革の浸透がある。株主が「利益率の改善」を強く求めるようになり、経営者は値上げを躊躇しなくなった。
ここで、2023年春のデータを見れば、当時はまだ価格転嫁が進まず、中小企業の倒産が急増していた。しかし今日、同じことが起きているかというと、状況は違う。倒産は確かに増えているが、その中身は「値上げに成功した企業と、できなかった企業の選別」という色合いが濃い。つまり、市場経済の冷徹な正常化が進んでいるだけ、という見方もできるのだ。これをラーメンの例で言えば、人気店は値上げしても客が並ぶが、そうでない店は客足が遠のく。まさに「うまい店だけが生き残る」競争が、価格という形で可視化されているわけだ。
さらに興味深いのは、この「選別」が、かつてないほど早いスピードで進んでいることだ。情報が瞬時に伝わるSNS時代、顧客の評判はすぐに拡散し、価格と品質のバランスがシビアに評価される。企業の価格支配力は、単に「オンリーワンの技術」だけでなく、「ブランドや評判」という無形資産によっても決まる。これが、今回の物価上昇局面で、想像以上に多くの企業が値上げに踏み切れた理由の一つかもしれない。
賃金も上がっている? 物価だけが上がるリスク
ここまで企業の話ばかりしてきたが、あなたの最大の関心事は「で、自分の給料は上がるの?」だろう。正直なところ、これはまだ「これから」の領域だ。今年の春闘では高い賃上げ率が話題になった。しかし、それがあなたの口座に反映されているかは別問題。中小企業や非正規労働者まで広がっているかは、データを待つ必要がある。
この「賃金」こそが、今回の企業物価上昇と株高の持続性を占う最大の鍵だ。もし賃金が上がらず、物価だけが上がり続ければ、いずれ消費は冷え込み、値上げも限界を迎える。そうなれば株高も長続きしない。しかし、もし賃金がしっかり追いつき始めたら。それは本物のインフレ経済への移行を意味し、日本株への見方は根本から変わる。
城内成長戦略担当大臣が「日銀の利上げを事前にけん制することはない」と発言したのも、この文脈で読める。政府は、日銀が早まって利上げし、せっかく芽生えた賃金上昇の火を消すことを警戒している。逆に言えば、それだけ「賃金が上がるかどうか」がギリギリの瀬戸際にある、ということだ。
この瀬戸際感を、少し歴史と比較しよう。1990年代初頭のバブル崩壊後、日本企業は賃金抑制でコスト競争力を保とうとした。それがデフレを定着させ、消費を冷やし、経済の停滞を招いた。今はその真逆で、企業が値上げし、賃金を上げ、消費が回るサイクルに入るかどうかの分岐点に立つ。2021年の米国が経験した「グレート・レジグネーション」後の賃金急騰とは背景が異なるが、労働力不足が構造的な問題である点は共通だ。日本の人口減少は、賃金上昇圧力を不可避にしている。つまり、賃金が上がらないリスクも確かにあるが、上がらざるを得ない土台はすでに整っているのだ。
要するに、今の市場は「企業が値上げできて利益を守り、そのお金で賃金を上げ、消費が回り出す」という最高のシナリオを、半ば強気に織り込み始めている。まだ「物語」の段階だが、これが現実になるかどうか。あなたの給料が、その答え合わせをしてくれる。
株高の秘密:AI需要とインフレヘッジの両面作戦
ところで、今回の株高の直接のきっかけは、前日のアメリカ市場、特にSOX指数(半導体関連指数)の急騰だった。AI需要という、疑いようのない追い風が半導体株を押し上げ、それが日本の関連銘柄に飛び火した。一見、企業物価の上昇とは無関係に思える。しかし、この二つは深いところでつながっている。
AI関連の設備投資は、巨大なモノの需要を生み出す。半導体製造装置、素材、そして電力。これらはまさに「川上」「川中」の製品だ。つまり、AI需要が企業物価を押し上げる要因の一部になっている。そして、その需要の強さが企業に価格転嫁の自信を与えている。需要が強いから値上げできる。値上げできるから設備投資を拡大できる。この循環は、単なるコストプッシュ・インフレを超えた、強気の物語を市場に提供する。
もう一つ見逃せないのが、市場が「インフレヘッジ」として日本株を見ている可能性だ。世界的にインフレがくすぶる中、資産を現金で持っていると目減りする。かといって、金利が上がる局面では債券も怖い。そこで、値上げできる力を持つ企業の株が、相対的に「強い資産」として選ばれる。日本株は長らく「デフレの負け組」だったが、それが逆に「やっとインフレに適応できる」という逆張りの買い理由になっている。
この動きは、2022年の世界的なインフレ局面で、米国株の一部セクターが物価上昇の受益者として買われたパターンに似ている。特に、価格決定力を持つ消費財メーカーや資源株が選好された。日本でも、同じ理屈で「値上げ株」が注目されているのだ。しかも、日本の場合、長年のデフレで株価が割安に放置されていたため、上昇余地が大きいと見られている。
つまり、今日の株価上昇は「AI特需」という短期的な興奮材料と、「日本経済の質的変化」という中期的な期待が、たまたま同じ日に重なった結果といえる。そして、その触媒となったのが「企業物価7.1%」という、一見ネガティブな数字だった。この数字が「悪いインフレ」ではなく「良いインフレ」の前兆かもしれない、と市場は解釈したのだ。
倒産5000件超の現実──「まだら景気」の死角
ただし、浮かれてばかりもいられない。足元では企業倒産が急増し、2024年は5000件を超えるペースだ。主に、価格転嫁が難しい中小企業や、人手不足で廃業に追い込まれるケースだ。これは「まだら景気」の深刻な副作用だ。AIや大企業が潤う一方で、地域経済を支えるプレーヤーが次々と倒れている。
この構図は、株高の見え方を大きく変える。日経平均が上がっても、それは一部の輸出企業や半導体関連株のおかげで、あなたの街のラーメン屋や町工場には関係ない。むしろ、仕入れ価格と人件費の上昇に苦しむ。この「株高なのに景気が悪い」感覚は、賃金上昇が広がらない限り、多くの人の実感であり続けるだろう。
ここで、倒産5000件超という数字を体感的に捉えよう。1年は約250営業日なので、1日あたり20社が倒産している計算になる。1時間に2社以上だ。場末の商店街でシャッターが一つ下りるようなペースである。これは「弱い企業の退場」と片づけるにはあまりに生々しい。同時に、これは経済の新陳代謝でもあり、倒産件数は景気動向の遅行指標でもある。つまり、今起きている倒産は、過去のコスト増を吸収しきれなかった結果だ。皮肉なことに、これから賃金が上昇すれば、さらに倒産は増える可能性もある。それが「良いインフレ」への移行に伴う痛みだとすれば、政策対応が問われる。
結局のところ、今回の企業物価上昇と株高は、光と影がはっきり分かれた「選別の時代」の象徴だ。あなたが働く産業、あなたが住む地域によって、肌で感じる経済の温度は真逆になる。これまでの「日本経済」という一枚岩の見方を捨てる時が来ている。


