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今日の貿易収支の発表で、市場がざわついている。ただの数字の発表と思うなかれ。ちょうど円が1ドル163円台という約39年半ぶりの超円安に突入しているタイミングだ。普通に考えれば「円安で輸出が増えて、貿易収支は改善!」となりそうだが、実は逆かもしれない。このタイムラグの仕組みを、読み終わったら誰かに話したくなるようにまとめよう。
163円の円安、なのに輸出はすぐ増えない?
1ドル163円。これは1987年以来の円安だ。普通に考えれば、日本製品が海外でバカ売れして、輸出企業の決算がウハウハになるはず。でもちょっと待ってほしい。実は今すぐ輸出数量が増えるわけではない。円安になってすぐは、むしろ貿易赤字が膨らむ傾向がある。これは「Jカーブ効果」という教科書通りの現象で、今日発表される貿易収支にも色濃く出るかもしれない。
なぜか。輸出企業が円安の恩恵を実感するには時間がかかる。契約はたいてい数ヶ月前に結ばれていて、価格も数量もすぐには変わらない。たとえば、ある自動車メーカーがドイツのディーラーと結んだ納入契約を考えてみよう。この契約は1ドル140円の時に「一台3万ドルで四半期ごとに500台」と決まっていた。今日、急に163円になっても、その契約の内容は変わらない。メーカーは約束通り3万ドルで納入し、その代金を円に換えるときだけレートが変わる。これではモノの売れ行きそのものは変わらず、数量効果はゼロだ。
一方で、輸入品の値段はすぐに跳ね上がる。国際商品市況で決まる原油や天然ガス、食料品などは、円ベースの支払額が為替の動きにほぼ直結する。お店に並ぶガソリンや小麦粉はすぐに値上がりするのに、輸出の好転はずっと後。このズレが、数字の上で「悪化」として表れるのだ。たとえば、ある月に輸入した原油の支払額を比べると、1ドル140円の時と163円では、同じ数量を買っても円換算で約16%も高くなる。輸出が変わらなければ、そのまま赤字拡大要因になるわけだ。
今日の発表で、貿易赤字が前月より拡大していても驚くにはあたらない。むしろ、それがこの円安局面の自然な序章と捉えるべきだ。市場参加者はこの「Jカーブ」を知っているから、発表直後の為替や株価の動きは数字の大小だけでなく「Jカーブのどの局面か」という解釈が混ざる。つまり、今日は短期的な悪材料を消化しながら、中長期的な改善をどう織り込むかという綱引きになる。これは、嵐の最中に灯台の光を見るようなものだ。目先の大波(赤字拡大)に驚きつつも、遠くに見える光(将来の輸出増)に期待する。
Jカーブ効果って何?—— 隣のレストランで考える
ここで、あらゆる経済解説で出てくる「Jカーブ」を、身近なたとえで話そう。あなたがレストランのオーナーで、今日からメニューを値下げするとする。値下げしたその日から、客は倍になるか? ならない。チラシが行き渡り、口コミが広がるまで、しばらくは客数が変わらないのに売上だけが減って、利益はガクンと落ちる。でも数ヶ月後、ようやく新規客が増えてきて、利益が値下げ前を上回る。為替もこれと同じだ。
このレストランのたとえを一歩進めよう。値下げした当日、常連客が「お、安くなった」と気づいても、その日はもう他の店を予約しているかもしれない。新しい価格をチラシに刷り、配り、SNSで拡散してもらうまでは、お店には新しい客が来ない。その間、オーナーは値下げ分の負担だけを抱える。円安も同じで、海外のバイヤーは今日すぐには動かない。「もっと下がるかも」と様子見をするかもしれないし、現地の物流や販売計画を組み直すのに数週間かかる。一方で、日本への輸入業者は石油や穀物の支払いを今日のレートで決済せざるを得ないから、コストアップだけが先鋭的に襲ってくる。
円安は、海外から見た日本製品の「値下げ」に相当する。しかし、海外のバイヤーが円安に気づいて発注を増やすまでには時間がかかる。一方で、日本の輸入業者はすぐに高いドルでモノを買わされるから、輸入金額が急増する。結果、貿易収支は最初に悪化し、その後改善する。この動きをグラフにすると「J」の字に似ているからJカーブと呼ばれる。つまり今日は、まだ「値下げ直後のレストラン」状態かもしれないということだ。
過去を振り返ると、2012年からのアベノミクス円安局面でも同じだった。2013年初め、ドル円が80円から100円に向かう中で、貿易赤字はむしろ拡大し、過去最大を記録した。輸出数量が増え始めたのは円安が定着して1年以上経ってからだ。当時の「円安なのに貿易赤字」というニュースに首をかしげた人も、今ならJカーブで説明がつく。あの時も、今日も、構造は同じだ。さらにさかのぼれば、2008年のリーマンショック後に急激な円高が進んだ後、2011年頃から円安方向に振れた時も同様のパターンが観測された。歴史は繰り返す。つまり、今の貿易赤字拡大もパターンの一コマに過ぎない可能性が高い。
輸出企業が「円安なのに儲からない」と言いだすワケ
Jカーブ効果で説明できるのはマクロの貿易収支だが、もう一つ、日本の輸出企業に共通する構造的な問題がある。それは海外生産比率の高さだ。多くの日本企業は、円高時代に海外に工場を移した。今や自動車メーカーの海外生産比率は5割を超え、電機・機械でも3~4割に達する。円安になっても、現地で作って現地で売る分には、輸出企業の業績に直接は響かない。
なぜこれが問題か。たとえば、ある自動車メーカーがアメリカで販売する車のうち、日本から輸出しているのは2割だけだとする。残りの8割は現地工場で生産していて、材料も現地調達、人件費もドル建て。円安になっても、この8割部分には為替の影響がほとんど及ばない。むしろ、海外工場で使う部品を日本から輸入している場合、そのコストは上がるから、利益を圧迫する要因にすらなる。つまり、海外生産比率が高い企業は、為替変動への「免疫」ができている反面、円安メリットも薄まるのだ。
為替感応度は年々落ちている。過去の常識では「1円の円安でトヨタの営業利益が何百億円増える」と言われたが、今はその数字がずいぶん小さくなった。グローバル化が進んだ結果、円安メリットを享受できる輸出の裾野が狭まっているのだ。それでも輸出関連株が人気なのは、市場が「それでも残る直接輸出の部分」と「海外子会社からの配当金が円換算で増える」という経路を評価しているからだが、以前ほどのインパクトはない。
エネルギーと食料が、赤字をどんどん膨らませる
輸入の話を深掘りしよう。日本の貿易赤字を語る上で、エネルギーと食料の輸入は外せない。東日本大震災以降、原発が止まり、液化天然ガス(LNG)や石炭の輸入が激増した。さらに、原油価格は地政学リスクで高止まりし、円安がその負担に追い打ちをかける。最近はイラン情勢の緊迫化で原油価格が上昇、円安と相まってガソリン価格は補助金なしでは大変なことになっている。1ドル163円の水準で1バレル80ドルの原油を買えば、以前140円の時と比べて、同じ量で約1,840円も余計に支払う計算になる。これが毎日、石油元売り会社の台所を直撃する。
食料品も同様だ。日本の食料自給率はカロリーベースで3割台。小麦、大豆、トウモロコシ、肉類、多くを輸入に頼る。円安はこれらの仕入れコストをダイレクトに押し上げ、食品メーカーや外食産業の利益を圧迫する。スーパーに並ぶ食パンや醤油の値段が上がる裏には、この輸入コスト増がある。今日の貿易収支で赤字が拡大しているとすれば、その大きな部分はこうした「価格が上がるしかなかった輸入品」によるものだ。家計も企業も、このコストプッシュから逃れられない。
つまり、円安の貿易収支への影響は、短期では輸入増大のインパクトが勝つ。しかも、今の日本は構造的に輸入依存度が高いから、円安の「痛み」が先に来て、「果実」はずっと後になる。今日発表の数字を見る時は、この構図を頭に置いておくといい。ちなみに、かつて日本が貿易立国と呼ばれた時代、例えば1980年代半ばのプラザ合意前は、輸出の国内生産比率が圧倒的に高く、円安は即座に「利益爆発」につながった。現在とは構造が根本的に異なる。だから、昔の感覚で「円安イコール日本株買い」は通じないのだ。
それでもなぜ輸出関連株は買われるのか
不可解なのは、理論上は「すぐに実体が良くならない」とわかっていても、市場では為替が円安に振れると輸出関連株が買われることだ。これは、株式市場が半年先、1年先の利益を織り込んで動くからだ。「Jカーブの底は今だ。だとすれば、これから先は輸出数量が増え、企業業績は改善する」という期待が、今の株価を押し上げる。
この期待の正体を分解してみる。投資家は、今日の貿易赤字という「実績」ではなく、数ヶ月後に出るであろう「受注高の増加」という先行指標を見ている。すでに半導体製造装置など一部の業種では、SOX指数の急騰(5%超)が示すように、需要回復への期待から受注が増える兆しがある。そして、その受注が実際に出荷される時には、さらに円安が進んでいれば、より多くの円建て利益をもたらす。市場はこの二段構えのストーリーを買っているのだ。
さらに、海外生産比率の高い企業でも、為替の評価益が四半期決算を押し上げる。原材料や人件費の多くが円建てで発生し、売上の一部がドル建てなら、円安は計算上の利益を増やす。これは会計上の話だからモノが売れなくても発生する。市場はこの「既存のドル資産の評価替え」にすぐ反応するから、業績予想の上方修正が出る前に株が動くのだ。
だから、今日発表の貿易収支が市場予想より悪くても、円安期待で輸出株が下がらないという可能性もある。データは「短期的に悪い」と言い、株は「長期的に良い」と言う。ここに投資家のジレンマがある。どちらを信じるかで、今日の市場は綱引きになる。レストランの値下げに戻れば、客足データがまだ悪い時点で「口コミが効いてくる」と信じて投資するようなもの。正しいかどうかは、時間が経たないとわからない。
次に似たニュースを見たときのチェックポイント
今日の貿易収支と為替の話を振り返ると、結局、数字を読む時に重要なのは「今、Jカーブのどの辺にいるのか」と「輸出企業と言っても、海外生産比率はどれくらいか」の2点だ。円安が進んでも、すぐに喜べない構造は、経済の教科書通りでありながら、意外と見落とされがちだ。
貿易収支が発表されるたびに、「先月より赤字が増えた、だから悪い」と短絡するのではなく、「輸入数量は増えたのか、それとも単に価格が上がっただけか」「輸出数量が動き出すのはこれからか」と、時間差の視点を持ってほしい。企業業績をみる時も、「海外生産比率が高い企業は、為替への感応度が昔ほどではない」という前提で数字を見ると、株価の動きの解像度が上がる。たとえば、ある輸出企業の決算説明会で「想定為替レートが1円円安になれば利益がいくら増える」という数字を開示していれば、それが直接輸出分の感応度と、海外子会社の換算利益を合わせたものだと理解できる。これがない企業は、すでに為替リスクをほぼ中立化している可能性が高い。
過去のアベノミクス円安時や、リーマンショック後の急激な円高是正局面で起きたことをなぞれば、今日の「円安なのに赤字」は決して異常ではない。それがわかれば、ニュースに振り回されずに、少し落ち着いて投資判断ができるようになるはずだ。目先の数字のインパクトに一喜一憂するのではなく、構造と時間軸を自分で組み立てる習慣がつけば、投資家として一段上のステージに上がれる。


